昭和四十五年四月六日 朝の御理解
御理解第78節
「神の機感にかのうた氏子がすくない。身代と人間と達者とがそろうて三代続いたら家柄人筋となって、これが神の機感にかのうたのじゃ。神の機感にかなわぬと、身代もあり力もあるが、まめにない。まめで賢うても身代をみたす(尽くす)ことがあり、また大切な者が死んで、身代を残して子孫をきらしてしまう。神のおかげを知らぬから、互い違いになってくる。信心して神の大恩を知れば、無事達者で子孫も続き身代もでき、一年まさり代まさりのおかげを受けることができるぞ」
神の機感にかのうた氏子にお取り立てを頂きたい。神の機感にかのうた私になりたい。願いと同時に、えー、そういう願いも持たなければならん。一年勝り代勝りのおかげを受けたい。そういう願いを持つならやはりそういうおかげの受けられる私にならせて頂く事の願いも持たなければならんのです。そこで私はここで今日焦点にしたいのは、んー、「神のおかげを知らぬから、互い違いになってくる」と仰せられる。互い違いという事、ね。この互い違いという、うー、所を一つ検討していく、みたいと思うんです。いうならまぁ信心はさせて頂いておって、えーもう願いがあの成就しないという、ね。右と願っても左、左と願っても右といわゆる互い違いになっておるわけですね。互い違いという事の中にですね、えー、神の大恩と言うか、えー、神様の御心と言うか。あー、それを私はまず悟らせてもらうという事。そこから本当の意味での神様の神の大恩を知る事が出来るのじゃないかと思います。
ところが実際は、あー、本当に物事がスムーズに思い通りいくという様な時にはです、まぁ有難い。ところが段々有難いのが当たり前の様になってくる。願い事がずーっと成就していったらね、えー有難い。けれどもその有難いがね通り越えてしもうてそれが当たり前の様になってくる。そこでね今度は、んなら当たり前その、えー互い違いになってくると、ね。願うた事が願うた通りにならない。互い違いになっておる。特にその互い違いになってくる時こそ神様の大恩、神の大恩を知る時ではないかとこう思います。ね。ですからその互い違いになってくる自分の思う様にならないという時に神の大恩が、あー、分かってまいりまして、そしていわゆる一年勝り代勝りのおかげを受けて神の機感にまぁかのうた氏子だと神様から言うて下さってあるのだろうと思う様におかげを受けていく、その根底になるものというのはやはり互い違いという所をその中に神様の願いと言うかね、神様の思いというものがある、そこの所を非常に一つ分からせて頂くおかげを頂かなければ神の大恩が分かったという事にはならんのじゃないかとこう思います。ね。
甘木の安武先生が、あー、仰ったとまぁというのを聞いておりますが、もう隆々たるごひれいを頂かれて何十年かの記念祭の、か何かの時のご挨拶の中に「安武松太郎いわゆる私が神様にお願いをしてもしお願い通りになっておったら今日の甘木はなかった」と仰っておる。いうなら互い違いになってきた。願うた事が願うた通りにならなかったそのおかげで今日の甘木はあると仰ったというのはです、その互い違いの中に神の大恩を先生はまぁ十分分かられていかれた、そういう稽古が積まれた。私はそういう風に思います。だからそういう所を私は信心辛抱と言うのではなかろうかとこう思うです。ね。
置いた物を取る様にしてスムーズにもしおかげを頂いたとするか。はぁおかげおかげと言うておってもそのおかげというのは段々おかげの実感というものそれが無くなってくる。けれどもそこの所が分かってのおかげ、万事万端の上に本当に神様のお働きをそこに感じる、んー、スムーズさと言うか素晴らしきタイミングと言うか、ね。そういうおかげが頂けれる為にですね、どうしても互い違いの時代を私は大事にしていかなきゃならない、そこを言うならば泣く泣くでも辛抱し抜かなきゃいけん。その辛抱し抜く所からです、私は本当の神様の大恩、いうなら神愛、ね。神様の本当の愛の心というものが分かる。そこから初めて神の大恩に対し奉る所の、おー、信心が出来る。神の大恩を知っておるだけじゃいかん、ね。神の大恩に応え奉る信心が出来るから年勝り代勝りのおかげが受けられるのである。ただ知るだけならば、あー、案外そう難しい事はない。一遍天地の大恩というものをまぁつまびらかにお話でも聞かせて頂きましたら、なるほどなるほどと合点のいく事ばかりなんだ。ね、神の大恩を分かるが為に天地の道理を聞かせてもろうたり、ね。致しますとなるほど神様のお働きと言うかご恩という事が分かります。だから分かっただけではいけん。ね。大恩が分かったら大恩に応え奉る私は信心生活と言うか神恩報謝の生活ね。神恩報謝の生活が出来るからですね、えー、一年勝り代勝りのおかげを受ける事が出来る様になるのですよ。ね。それを何か知らん自分の思いが成就せんとおかげを頂いておらん様に思うたり、またはおかげの頂き足らん様に思うたりするところから本当のおかげが頂かれんのだとこう思います。
昨日は、えー、壮年部会でございましたが、んーあーあー、本当に時間が足りない様に皆さん一人一人がお話を、おー、して下さいました。あー、皆やっぱおかげを頂きましたが、中に久富勇さんが発表しておられました。この頃、おー、梅林の先生から、あー、絵を描いてもらっておられて、色紙に。それに私がまぁ讃(さん)、讃を書いた、ね。えーそれにですね、露草の露とあの露草が絵に描いてあります。露草っていうのがありますね。今頃から咲くでしょうがあの溝傍なんかに、いー、本当に水色の濃い花を小さい花を咲かせる花ですね。そのおー露草に露があった、まぁ露というのは神の恵みとこう言う。その露草にまた露が降っておる。いわゆるおかげの上のまたおかげだという意味の事を書いてあるんです。まぁ言うならばそれを普通で言うなら、あー、まぁ泣き面に蜂、踏んだり蹴ったりという様な場合こそね、言うたら神様の本当のおーお鍛えと言うか神様の働きというのがあっておる時であって、ね。えーそこの所を大事にしていかなければならんという様な御理解を頂いておられますから以来、その勇さんは信心が手厚う出来られますけれどもどっちかと言うとちょっと気が短い方ですね。でそういう時にいつも心を汚したりいわゆる和賀心を、おー、無くされる。和賀心が薄うなる。それで最近はそのーまぁ言うならば困った上にまた困った事が起きて来ると。言うならば、んー、まぁイライラもやもやする様な事があったりする様な事が重なる様な事がある。時にはね、その事をすぐ思う様に致しますと。まぁそれでも治まらんといわゆるお百姓さんですからまぁいつも(みずとり?)だけで働いておられますが、(一旦ぬいて?)御神前に出てからその、おー、色紙を見せて頂く、いわゆる拝ませて頂く様に致しておりますという事を言っておられます。本当は今こそ露草の上にまた露が降っておる程しのおかげを頂いておる事をです分かりながらもイライラもやもやする。どうにも出来ない。ですからその神様の本当の深い思いを分からせて頂きます為にわざわざお座敷に上がっていってそれを拝むとこう言われる。見たり拝んだりする。そこからはぁーそうだそうだとこう胸を撫で下ろす事が出来る。その次には神様有難うございますと御礼を言う、いわゆる和賀心を頂かせてもらう事が出来る。今その様ないわば努め方をしておりますと言うておるわけなんです。やっぱりですね、その努めなければ駄目ですね私共の場合。即有難いという様な事なかなか出来ません。難儀即有難いという事はなかなか出来ませんから、それが出来る為に一つそういう稽古をしなければいけんというのが分かります。
えー、石井清さんが発表しておられましたが、まぁいつもの事ながら本当におかげを受ける人は違うなぁと思いました。これをしかしこれは清さんのものだなとも思いましたけれどもやはりですね、なるほどそういう生き方受け方をするならもうおかげを、おかげの実感というものは次から次と続いていく事だろうとこう思います。けれどももし清さんに金光様という信心が無かったら、この人はもう本当は惨めな惨めな世の中の下積みになっていく様な人だっただろうとさえ思いました。子供の時からね、自分でもいつも言ったんですけれども非常に卑屈なね、もう自分は何にも出来ん出来んというそれが実感的にね、子供の時からそういう思いが強かったらしいですね。だから人前でそのーおーまぁ物でも言うという様な事が非常に自分はもうつまらんとこう、おー謙虚なものというのじゃなくてですね自分を卑下してしまっておるという様な所が今でもやっぱりありますね。それをいつも自分でも言っておられ私もそんな人だと思いますけれども、そこに信心という事が出来、になった時ですねそういう例えば惨めな欠点がね、もーう素晴らしい長所になっておるという事なんです。
例えばあー、人に軽う見られたりね、えー、またはいわゆる馬鹿にされたりする様な時もある。と言うてまぁ今申しますように本当に自分の思う様にならないねmそれこそ難儀な上の難儀を感ずる時もある。そういう時にですね、えー、大体清さんはそれこそ、おー、神様の働きが今始まっとる時と思うて心の底でニコッと笑わせて頂く様なおかげを頂いておる人です、ね。ここでいうならばここで腹かき出しよるなら馬鹿らしかという様なものがある。もう徹底してその事を思い込んでおられるですね。ですからそういう時ほどかえって有難いといった様なものを感じれれるいわば、しかしやっぱり稽古だと思う。始めからそうなれたんじゃなかった。その事を何とかね、何とか言ってますよね河野さん。(べそをかく・・・。)あぁ、べそをかくという事を言ってましたね。ね。例えば人にじゃんとやられたり、まぁあー、難儀な事になる時なった時ですね、いわゆる自分の持って生まれた本当に欠点であると思われる様なその卑屈なね、自分を下卑したその物がです、言い訳もしきらん。これは神様に対してもいうならば人に対しても。そこでですね、ただじっとべそをかくと言うのである。私はそれを聞かせて頂きよってもそれが素晴らしいと思いました。それを話の途中に申しましたそれを、そうじゃんなあんたがそういう時にべそのかけれる、そしてじっと金光様で辛抱しておるからそれが溜まり溜まっておかげになっていきよるから大抵な事はニコッと笑えるんだもんねって。
けれどもやはりならニコッと笑える様な事ばっかり実は無いという事である。そういう時にはです、それに反発しないで言い訳をしないで自分のいわゆる性格的な一つの欠陥とも思われる様なですね、もう自分はつまらんというこうべそをかくんだとこう。ね。じっとこう、べそをかいてじっとこう涙ぐんでおるというわけなんです。ね。心に金光様を唱えながらべそをかいておるというこう、そういう時にです、ね。そういう時に例えば反発をしたり、どうしてといった様な事になったらおかげが受けられんのであり、そういうべそをかくという様なあのー事柄がね、いくら続いても続いてもそれを辛抱する力というものがべそをかいておる間に培われる。そしてそれがおかげになっていくという事実をね、もう日々の中に体験していっておるわけですよ。ですから普通で言うならばこの人は馬鹿じゃなかじゃろうかと思われる位に腹の立つ様な問題でもですね、いわゆるそういう稽古が出来ておりますからこれがおかげの元という事を知っておるから、腹かいちゃあ馬鹿らしかという事に結論される位な所までその欠点が長所になっていきよるわけです。ね。これはまぁ性格的なものです。これは清さんのものですけれどもですね、私はこのべそをかくという事はいわゆる和賀心のおかげを頂く一つの過程である。ね。互い違いになっていく所をです、ね。が、その互い違いこそが神様の愛の現れであるといった様な事がですね、分かっていくのです。そこん所をべそをかかずにじっとうつむいて受ける、その、その性根というものがね、大体欠点の様ですけれどもそれが幸いをしておかげを受けておると。ですから段々大抵な事になら、もう腹を立てんでいわばすむとか、ね。難儀な事だと思わんですむおかげを受けておるです。ね。勿論そのーそこにね、いわゆる金光様金光様もう私がもう本当にだらしがない、つまらん。自分は人並みでないと、自分は人並みではないというその思いがです、どんなに言われてもじっと下をうつむいて自分がべそをかいておるという事。この事はね、一つの難儀な問題に直面した時に神様から頂いたものらしいです、それよりべそをかくという事を頂いた。そのべそをかくという事が有難いという事。有難いと言うかそのおかげへの過程であり和賀心への一つの過程なんです、ね。そういう事が何回か続きよるとですね、同じ様な問題をもうべそをかかんですむ、いわゆる有難いという事になってくるわけなんです。
だからそれは何処までも石井清さんのものだけれどもです、んならその自分という者がですね、えー、こんなに人よりもつまらない自分だという自覚を作るという事は、私共が日頃稽古しておる自分自身を知れという事。ね。そして自分の様な者がと、いわゆる吾屑の子であるという自覚というものが本当に出来てくる時、私はそういう時に有難いべそをかく事が出来るのじゃないかとこう思います。それは清さんのものであってもです、私自身をいわゆる屑の子の自覚、本当にもう自分のごたるつまらん者はおらんと。人並みでないと。というその自覚なんです。それがね、それがそういう問題に直面した時にべそをかく、それも唯べそをかいとるのじゃない金光様ーを唱えながらのべそである所に素晴らしさがある。それが繰り返されていく内にです、そのああいう時にべそをかいておる、ああいう時に反発しない、ああいう時に腹を立てる、ああいう時に情けないと思わない、ただ自分の性状と言うかそういう性根がね、いよいよつまらん自分だなと思う時にべそをかくけれどもその後にです、神様がね、いうなら撫でたり擦ったりする程しに、そのそりゃそうですわね、言い訳もしきらずにじっとこう、あのーおー、目に涙を一杯溜めてこう下をうつむいておるという様な情景を一つ思うてご覧なさい、言い訳すりゃあ言い訳する事があろうばってん、じっとこう下をうつむいておる。もう何か本当に撫で擦りしてやりたい様な思いがする様なものであってね、神様がその後におかげを見せて下さる。してみるとそういう時にべそをかく事はいらん、神様有難うございますと言やあええ、いやむしろそういう時に心の底ではニコッといやー神様がどげなおかげば下さろうと思いござるじゃろうかという様にです、心が豊かにそういう受け方が出来る様になる。清さんそこがあんたが素晴らしい所じゃんね、言うてまぁ私が言わせて頂いた事ですけれどもね。そういういうならば腹の立つ様な問題でもですね、始めからニコッと受けられるのじゃなかったという事なんです。何か初めてそういうそのー事を、そのー、聞かせてもろうて素晴らしい事だとこう思う。
昨日のお話を聞かせて頂いておる時に、いー、その話を聞いておられた、あー、もう大変なまぁいうならば、あー、それこそもう本当に自分の家の上に爆弾が落ちたごたる思いをしよるという方がお話を頂いておられましたがです、まぁ私は今日は今の清さんのお話を頂いて、本当にそういう時にべそをかく事を覚えさせて頂いたら問題ないですねと言うておかげを受けられた方があります。その話を聞きながら。どうしたならああいう人から、どうしたならばこういう難儀な、あーそのー、それこそ爆弾の落ちたごたる事を言われなければならんだろうか、されなければならんだろうかという時にです、ほんに、べそをかい、自分という者をぎりぎり見極めたらべそがかけるというのである。だからそのべそをかけるという事はね、いわば次の同じ様な問題の時にはニコッと受けれる程しのその中間におかげがあるのですよ。あれがおかげであったという事。ね。いわゆる互い違いになって、なってくる、ね。そのね、私は神の大恩を知らぬから勿論互い違いにもなってくるのです。ね。神のおかげを知らんから互い違いになってくるのですけれども、その互い違いになるおかげによってです、神の大恩が分かる様になるのですよ。神様のいよいよ深い深い御神意、思いが分かる様になるのですよ。そこからいわゆるメソメソしよる、しなければならないね、泣きべそをかかなければならない様な事に直面致しましても、その事がおかげとはっきり分からせて頂くから、ね、私は一年勝り代勝り、いうなら人間も身代も達者も揃うたおかげの受けられる様な元がその様にして出来ていくんだと思わせて頂きます。ね。
私は本当に自分自身の心の中に家庭の中にですね、そういう信心をです、一つ本気で家族一同で努めていきたい。泣き面に蜂、踏んだり蹴ったりと言われる時こそです、それこそ露草の上にまた露が降っておる程しの事であると分からせてもらって、自分という者をぎりぎり見極めさせて頂いてこうして踏んだり蹴ったりされるはずじゃんというものをね、自分の心の中に見極めていく。ね。その事によって神様がこの様にして私を本当なおかげに、おかげの頂けれる基礎を作って下さるんだと分からせて頂いてね、そこに精進をする。いわゆる勇さんがそういう時にです、本当に泣き面に蜂と言うごたる、踏んだり蹴ったりされる様な思いをする時にです、わざわざ御神前まで上がっていってその露草の露という絵をね、眺めさせて頂いて自分の心が治まるまでそれを見ておくというわけだ。ね。だからそういう、まぁいうならばそういう稽古がですね、出来ていかなきゃいけんと思うです、ね。清さんがならね、べそをかくという日々中に問題があろうと思います。自分ながらくぅーっとする様な事があろうと思うんです、ね。そのくぅーっとする時にいわゆるいうならばべそをかいておる時であるけれども、そのそこに「金光様ー」と言いながらくぅーっとしておるっちゅうのです。そのくぅーっとした事をどうしてじゃろうかああじゃろうか、そのくぅーっとしたものを他の方へ持っていって心をパァッとさせようというな事をしないでですね、そのくぅーっとする中に金光様が唱えられておる。ね。そこにねそのくぅーっとする様な問題がよし次に起こってもです、それがおかげであるという、おかげをですね、そのもう直後には受けておりますからね。なるほど腹かいちゃあ馬鹿らしかという思い込みが、いうならくぅーっとしちゃあ馬鹿らしかという様な思い込みがですね、いよいよ出来てくるんじゃないでしょうかね。そこに互い違いになってくるではなくてです、ね。素晴らしきタイミングが生まれてくる程しのおかげが頂けれる。ね。
ここを皆さんがそこん所をですね、「神のおかげを知らんから互い違いになってくる」確かに互い違いになってくるという事はね、神の大恩を知らぬからです、ね。ですけれどもその互い違いになる事自体がですね、そこを分からせて頂く事の為なのですからやっぱりおかげなんです。ね。「信心して神の大恩を知れば」と、そういう修行そういう取り組み方、勇さんの様な取り組み方。または清さんの様な頂き方。そういう信心をしてですね、いく内にこれは嫌っと、いらんと思うても神の大恩は自ずと分かってくるだろう。そこに「無事達者で子孫も続き身代もでき、一年まさり代まさりのおかげを受けられることができる」というおかげ、ね。そこの所をね、本気で一つあのー取り組ませて頂かなきゃいけんと思うですよね。それが信心だという事ですよ。ね。そこにね私はね、いわゆる和賀心。ね。いわゆる和賀心にならせて頂けれる、または和賀心でおれれる、そのおー、基礎というものがね、その様にして出来ていくんだという風に思います。その和賀心が揺るがないものになってくるからね、いわゆる神の大恩を大恩とまともに感じられる事が出来る。そこん所を通らずしてああ自分の思う通りになるスムーズにいくという様なおかげばかりでは、そのおかげの中にありますと人間はもうそのおかげをおかげとも思わない。ね。当たり前の事の様になってくる。ね。その当たり前の様な事になってくる事が恐ろしい。ね。そういう事になるからいわば身代を潰す、ね。身代はあっても、おー、死んではならない者が死んだり、ね。身代はあっても、ね、えー、例えば死ななくても病気がちで、えー、もう健康にさえありゃあ金やらはいらんという位いう様な事にすらなってくる。いわゆるこれではね、いつまでたっても本当の家柄一筋という様なものになってこない。いわゆる「神の機感にかのうた氏子」とこう仰る、神の機感にかのうた氏子という事を目指す為にです、実は私は神のおかげをまた知る為にです、互い違いになってくる所をですね大切にしていく信心。そのまぁ極め手とでも申しましょうかね、それを久富勇さんと石井清さんの昨日の、おー、体験発表の中からね、えー、皆さんに聞いて頂きましたんですけれども。そういう生き方を持ってですね一つ信心の稽古、それはまた他にもありましょうそれぞれの信心によってそこの所の稽古のいき方はありましょうけれどもなるほどそういう生き方で行きさえすりゃあ本当におかげが頂けるなと私は感じました。どうぞ。